ログファイル・バックナンバー
古いログファイルです。思い出にひたってみましょう。
1999年 :
5月第1週号
先週
バックナンバー
次週へ
日記更新時刻取得エージェント『朝日奈アンテナIT』
日記の登場人物はここでチェック!!
▲▼▲ 1999年 5月 第 1 週 にあった出来事 ▲▼▲
【祖父の死】
昨年11月より入院していた祖父が享年81歳で生涯を終えた。
当初、透析の準備のための入院と聞かされており全然心配をしていなかった。
2月には退院の知らせも受けており、年末年始、少し寂しかった宮治家もまた活気が戻ると思っていた。
しかし、風邪を拗らせ退院は延期。揚げ句、4月の末には危篤状態となり5月2日の午後4時45分深い眠りについた。
連休最初は、InfoToyotaのY2K対策でてんやわんやだった。一度作業を始めてしまった以上途中で放り出すわけに
もいかず、危篤の知らせを聞いては病院に駆け込み…また戻っては作業を続行するという日々だった。
父と母は昼夜病院で付き添いをしているせいか、顔色も悪く疲労困憊している様子だった。
危篤状態3日目となると分単位で祖父の姿は刻々と変化する。
祖父は腎臓が悪かった。若いときに腎臓を悪くし1つの腎臓で長い生涯を過してきた。
しかし、80歳ともなるとやがてその残された腎臓も調子が悪くなる。体に毒が溜まって排泄できずに
亡くなったのだ。腎臓以外の臓器は至って健康。特に、心臓は驚くほどの丈夫さだと医者は言っていた。
それゆえ、末期は痛々しくて見ていられなかった。体の毒を排泄できないまま体内に溜まり、
顔や手がむくむ。当然、点滴をしてその点滴が尿として出ずに体内に溜まって行くのだから、
体は水風船のようだ。吐血し、血が固まり呼吸も苦しそうだった。それでも心蔵は無情にも動きつづける。
あの姿を見ると…如何に最新の医療技術でさえ延命でしかない無力さを感じる。
患者の苦痛を和らげる医療というものも必要だと思い知らさせれる。
自分が祖父の立場なら間違いなく安楽死を希望するだろう。
(しかし、家族…特に子供にとっては1秒でも長い"生"を希望するだろうが…)
祖父が亡くなると、状況も飲み込めないまま看護婦から「葬儀センターリスト」を手渡された。
直に電話して予約をとってほしいという。
家族には悲しむ時間も与えられない。父が電話をすると2時間後には霊柩車が到着。
あれよあれよと言うまに2日は過ぎ、残ったものは祖父の思い出とだけとなった。
僕ら、孫たちは祖父からは本当に可愛がられた。
祖父は(若かりし頃の思い出から)戦争好きで戦争の思い出話が尽きない人だった。
あまりにも思い出話が尽きないので祖母から文句を言われるほどだった。
戦地、パラオ諸島やヤップ島に戦友を偲んで旅行に出かけたこともしばしばあった。
また、釣りも大好きで豊田市の釣り大会で優勝し新聞に載ったこともあった。
魚を釣り上げたときの笑顔は無邪気で本当に嬉しそうだった。
今思えば、本当に心温かい人だった。22年間付き合ってきて怒った姿を見たのは1度も無い。
いつもニコニコしていて、優しかった。
その優しい性格は、猫を家族のように可愛がっていたところからも感じらた。
そんな祖父の周辺にはいつも誰かが居たように思う。
そんな、”おじいちゃん”が僕は大好きだった。
病院でさぞ辛かっただろうね。家に帰って猫と仲良く暮らしたかっただろうに。
おじいちゃん、安らかに眠って下さい。
宮治 和弘(Kazuhiro Miyaji)
E-mail :
miyaji"@"toyota.ne.jp
ALL Right Reserved Copyright(C) By Kazuhiro MIyaji.1999